そら飛ぶ映画好きのひとりごと。

感想は抽象的であり、単なる感想に過ぎません。

もののけ姫

昨日のナウシカに引き続き、もののけ姫を観た。

やはり大きなスクリーンで、良い音響で映画を観ることは素晴らしい。家のテレビでCMを挟みながら観るのとは訳が違う。

ジブリといえば音楽だろう。心に残る曲がいくつもある。特に、もののけ姫の音楽は秀でて美しいと思う。それを映画館の音響で聞くことができただけでも、価値のある体験だった。

 

昨日のナウシカとは違って、本日は泣くほどに衝撃を受けなかった。なぜだろう?とずっと考えている。ナウシカもののけ姫も描かれているテーマは似ている。自然と人間。文明と破壊。だが、もののけ姫は感動はしたが、ナウシカほどではなかった。

理由を考えてみたが、ナウシカは「人間は自然を破壊する野蛮な存在」である感じを突きつけられたようであり、ナウシカという女神のような超人的な一人の者が犠牲になる姿を見せつけられる。一方もののけ姫の場合は、確かに同じことを突きつけられるが、戦ったのちに人間と自然が共存していこうという結果に落ち着いていた。傷つけてきた自然から許しを得て、神から自然を譲り受けたような最後だった。もののけ姫には「答え」が描かれ、完結していたからか?それとも、前日にナウシカの衝撃を受け色々と考えているうちにもう十分に満たされてしまったのかもしれない。

どちらが優れているか比較したいわけではない。どちらも奥深い物語で考えさせられるので、非常に興味深い作品であることは言うまでもなく、名作と言える。

 

ナウシカもののけ姫、と観てきて、神話について勉強したくなってきた。もののけ姫について理解を深めるには、神話というよりは宗教と日本史を勉強するべきかもしれない。

 

とにかく映画を観て理解をするには知識がいる。私は昔から映画を好きであったが、社会人になる前までに突き詰めてこなかったし、数も多く観てこなかった。理系だったということもあり、歴史の知識も浅い。(理系ということを言い訳にするのは良くないのかもしれないが…)大人になって働きながら勉強するには時間が足りない気がしてしまい追い詰められるような感覚だ。

小さな頃から映画に触れてきた著名人の話を聞くと少し羨ましくもある。経験する機会があったことはとても恵まれている。

果たして、私はそういった人たちに追いつけるだろうか?深みの境地に達することができるだろうか。もっと頑張らないとな、と思うのである。

 

本日は疲れてしまったので考察ができない〜

 

風の谷のナウシカ

冒頭、雪が舞っているのかな?と思ったものは、そうだ、腐海に漂う胞子だ。大きなスクリーンで見ると、トゲがあることを見て取れる。雪の結晶なのかな?とつい思ってしまい、美しいと感じた。

オープニングクレジットで聞き馴染みのある音楽と共に、エジプト文明か何かでありそうな壁画のようなものが映像で流れる。この時に思った。これは、神話的な物語であると。

この映画は、1984年の映画だ。35年以上も前の映画である。それなのに、一つも色褪せることなく、魅力的な映像・音楽であった。

 

最後に見たのがいつか思い出せなかった。テレビでよく放映しているので、もしかすると何度か見ているのかもしれないが、正直記憶にない。恐らくだが、幼稚園生か小学低学年の時に、祖父の家で見た記憶しか残っていないので、ちゃんと見たのはそれが最後だと思う。20年近く前だ。

漫画版を読んだのは大学生の時。ただ、数年前に読んだとはいえ、漫画版と映画版はかなり異なっているため、やはり映画版の記憶を完璧に呼び戻すことには至らない。漫画版は驚くほど壮大で、実はナウシカが生きる世界は何かに仕組まれていたような・・・という曖昧な記憶しかない。

また、私はジブリに対して苦手意識を持っていた。ジブリの名作とされているナウシカや、もののけ姫は小さい頃の私には刺激が強く、すごく「怖くて不気味なもの」という記憶がこびりついていた。意外と手や頭が吹っ飛ぶような描写もあったため、それが脳裏にこびりついている。そのため宮崎駿の世界観に苦手意識があり、映画の勉強を始めてからもあまりジブリには触れないでいた。

 

そんな風にジブリを避けてきて、ほとんど全てを忘れきった状態で見たので、新たな気持ちで見ることができた。

とても感動し、涙を流してしまった。いや、感動というより、あまりにもナウシカの心が清く美しく、自分の心が荒んでいるような気持ちにさせられてしまい、圧倒されてしまったのだ。

ナウシカはあまりにも理想的すぎる。清く美しい心を持ち、強くてリーダーシップがあり、母性も兼ね備えた博愛主義者。誰もがナウシカを愛し、魅力を感じてついていこうとする。そんな存在だ。そんな人は現実にはいない。完全な理想像である。

ナウシカの存在というのは現実離れして、だからこそ神話的なお話ということを思わせられる。

宮崎駿は神話にも精通しているのだろうと思った。神話や人類の歴史を元にしていることは明らかである。その知識の中に、自分の作り出した世界観を盛り込んで壮大な物語を作っている。才能を感じざるを得ない。

 

なにゆえジブリ作品がここまで神聖化されて、どんな世代にも興味関心を持たせ続けているのか、その理由を本日理解したような気がした。

 

あまりにも完璧な、パーフェクトガールが自然や生き物を傷つけることをものすごく嫌がり、避けようとする姿を見ていると、なんだか申し訳なくなってくる。

戦争を重ね、自然を破壊して文明を築いてきた人間である私たち。自然を愛して争いは悪であるとはっきりと口にする者の声は少し耳に痛い。

人類はみな、自然や生き物を滅ぼしてきた罪の意識がどこか心の奥底にあるかもしれない。だから、宮崎駿の作品、特にナウシカもののけ姫は我々の心の奥底に潜む罪の意識のような何か感覚的な意識をえぐり出すものなのかもしれない。

小さい頃に感じた”怖さ”というのは、もしかしたらこれなのかもしれない。人間がしてきたことに自然や生き物が怒っているのを見せてくる。ナウシカのような”善き人”がいる中で、自然や生き物などの(人間からすると)無垢な存在を利用している”悪い人”の行いが目に付く。人間の身勝手さと、それに反抗し怒りをあらわにしている自然・生き物、その姿に幼いながら恐れおののいたのか。

 

風の谷でナウシカが姫として扱われていることや、トルメキアの軍隊が侵攻してきところを見て、人類がいかにして社会構造を築き上げてきたか、ということを見て取れる。

人はコミュニティを作って、その中で力あるものを神かのように崇めついていき、そうして文明を築いた。このようなコミュニティの形成は人類が石器時代よりも前から行ってきたことだ。

自分たちが安心できるコミュニティの中に、新たなコミュニティが侵攻してくることを恐れる。なぜなら、築き上げてきた社会構造が壊されてしまう可能性があるからだ。

コミュニティを作るということは、保守的なことだ。安心感がある。その安心を脅かされることを人は恐れる。だから、戦争が起きたのだろう。

現代は世界がネットワークで繋がり、一体化されているようだ。

それでも、多くのコミュニティなるものが今でもぶつかり合っている。

人類が”自分と異なる者”を排除しようとしてきた歴史を見ると、いまだにそれが根付いたままであり、人間は古代から変わらないのだな〜と思う。でも、これはある意味本能的な動物的な行為なのかもしれない。生き永らえ種族を存続させるには仕方のないことなのだ。

 

少し前にゾンビという映画を見た。

あれも、ゾンビという「新人類」なるものに恐れおののいた人間たちが、生き延びようとしてゾンビの殺戮に走る。一方で必要以上に殺さずうまく共存しようとする者たちもいるが、排除する意識に変わりはない。

 

映画を見ていると、人間の本質などに迫っているものがたくさんあり、考えさせられることが多い。人間の本質や歴史を踏まえながらも、ナウシカのような娯楽的な、多くの人が楽しむことのできる作品を作れることは本当にすごいことだと感じる。

ナウシカの漫画版を思い出そうと、あらすじを語っている人の動画を見て内容を思い出した。これは、ロード・オブ・ザ・リング的な壮大さを持っている。いや、ロード・オブ・ザ・リングの方がもっと壮大なのかもしれないが・・・。こんな物語を作れる人の頭の中はどうなっているのだ?神話を作った者もそうだ。創造性と知識を兼ね備えている。これはとてもすごいことである。

 

ウェイブス WAVES

 

流れるように進んでいく

普通じゃない

音と光の捉え方

 

---------------

すごいものを観た。こんな映画は初めてである。まるでマンチェスター・バイ・ザ・シーのようだが、芸術性が高く、光、音の捉え方が美しい。

前半と後半で大きく映画の様子が変わってくる。

前半は、行き場を失った兄の追い詰められた状態を画面サイズや音楽や激しく動き回るカメラワーク、そして光の点滅などで表現している。

後半は美しい。優しさと愛に溢れている。どうしようもなく追い詰められた状態の中で、気持ちの落とし所をつけ、答えを見出していこうとする。どんなことがあっても、人と人が支え合い前へ進んでいこうとする。

 

とても新しいいことをやっている映画だと思った。こういった手法は今後真似されるかもしれない。アートのような作品でありながら、人の心、家族の関係などについて突き詰められている。

監督はテレンス・マリックの下で働いていたと言う。美しい映像や人の心を撮る監督だ。きっと、テレンス・マリックの影響を強く受けているのだろう。激しい映像の中に、細やかな人の心が描かれていた。

この映画を作った人は、非常に鋭い感性を持っている。

---------------

こちらは私がFilmarksというサイトに書いた感想だ。初めて書いた。(表現が気に食わなかったところは微妙に変えた)

観た映画のメモに使っていて評価などはほとんどつけていないし、感想も書いていなかったが、今回は結構な衝撃を受けたので書いてみた。いいねをしてくれる人がいて、意外と読んでもらえるものなのだな〜 と思った。今後も衝撃的な映画に出会ったら書いてみるかもしれない。

 

ウェイブスの何がすごいと思ったかと言うと、感情表現の仕方だ。カメラの寄り具合とか、音楽や光で表現されている。何よりも強烈だったのが、画面サイズが変わった瞬間だ。今回学んだのだが、アスペクト比と言うらしい。

その比率がほとんど1:1になった瞬間が強烈であった。彼の視野はもうあれだけの範囲になってしまったのだ。その瞬間が恐ろしかった。胸に突き刺さったし、正直驚いてしまった。

 

終始流れるような芸術的な映画だったが、後半に向かっては困難なことにぶつかった時にどうやって気持ちの落とし所を付けるのか、というところが突き詰められていた。そこに感銘を受けた。私が映画の師匠と勝手に思っている方が観る前に教えてくれたのだが、マンチェスター・バイ・ザ・シーのようだと。本当にそう思った。マンチェスター・バイ・ザ・シーをより芸術的にした感じがウェイブスだ。 

単に芸術性の高い、アート映画というわけでない。人の心や人間関係についても突き詰められていた、というのを私は感じた。

 

流れるように映像が切り替わり、話が進んでいくので、その流れに身を任せて観ていくような感じだった。抵抗感や疑問が生まれる隙もなく、どんどんと止まることなく進んでいくのだ。まるで波に飲まれていくような感覚である。まさにウェイブスというタイトルは相応しく思えた。

  

音楽をたくさん使っているが、うるさいとかしつこいという感じはなかった。

盛り上げるために使っているというよりは、その時々の人の感情・心情を表現しているので、常に出演者の様子やその時の空気と合わさっている。そこにあって当然のように音楽が漂っている。それがとても心地よかった。

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト Once Upon A Time In The West

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェストと日本語で打ち込んで、・がやたらと多いな、と思っている。

マカロニ・ウエスタンをこの世に知らしめた、セルジオ・レオーニ監督のワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェストを観てきた。ワンス〜は長編バージョンで、実は昔に日本で公開された時は『ウエスタン』という邦題で短縮バージョンで公開されたそう。

・・・正直、本日観に行ってネットで検索するまで知らなかった。

というのも、私はちゃんとした西部劇を観たことがなかった。しかもセルジオ・レオーニが作ってきた西部劇というのは、「マカロニ・ウエスタン」と呼ばれ、イタリア系の俳優を使い、イタリアの荒野を使って撮影されたものらしい。「マカロニ・ウエスタン」という言葉は聞いたことがあったし、イタリアものということもなんとなく知っていたが、調べてみてなるほどと思った。

 

この映画は3時間弱あるがあまり長く感じなかった。2時間くらいに感じた。

じっくり、じんわりと流れる映像は、気が急いている時に見ると「早くしろ!」と思うかもしれない。ただ、そのじっくりじんわりのおかげで、ガンマンの撃ち合いが始まる前の緊張感なるものを感じ取ることができる。セリフも少なめで、「何かが起きそうな雰囲気」が漂うことが多々あった。

オープニングクレジットは本当に長かった。あれほど長いものは初めてである。

大抵の映画は、オープニングクレジットにはそんなに時間をかけない。ぱっぱと進んでいくが、時間をかけて撮られたオープニングクレジットを目にして、この映画はゆったりとした気持ちで見るものだ、というのを悟った。このゆっくりさだからこそ3時間弱なのだろうな、と思ったが、あのオープニングクレジットのおかげでこの先3時間大人しく観ていよう、と構えることができた。

タランティーノが最も影響を受けたとも言われているらしかったので、作り手のことを信頼し、3時間弱身を委ねることにした。

結果、思っていたよりも短く感じたし、飽きることなく最後まで楽しめた。

ゆったりと流れる映像のおかげで、じっくりと映像を見ることができた。ファッションやインテリアや人々の様子。アメリカ西部であり、蒸気機関車が走っていたり、線路を伸ばしたり、街を作っている過程であったりしたので、おそらく西部開拓時代なのだな、ということが見て取れた。ガンマンが西部開拓時代にいたということも、歴史をよく勉強していなかったもので、本日ようやく繋がった、というところだ。知識不足を詫びたいところだが、予備知識も何も持っていなくとも、ちゃんと理解できる映画だったので良かった。ものすごくよく景色や、当時の工事の様子などを映してくれるので、描かれている時代の状況がよく分かった。

また、観ていてすごく思ったのだが、この時代はまだ蒸気機関車の時代だし、ちょっとした移動は馬を使うし、とにかく移動するのに時間がかかる。そのためか、映画としての時間がゆったりと流れることは当たり前であると受け入れられたし、それが心地よくもあった。

今私は2020年を生きていて、しかも都会にいる。毎日せわしなく時間が過ぎていくし、自然を感じる時間やゆったりと自分のために時間を費やすことも少ない。

現代は何をするにも便利なものがあり、病気になっても優れたワクチンもあるし、遠く離れても家族や友人と繋がることができる良い時代だ、と確かに思う。

ただ、このワンス〜インザウェストで描かれているゆったりじっくりな時間も非常に味わい深く、素晴らしい体験であった。

 

メインキャストだけでなく、よーく周りの景色や周辺の人々を観察してみた。黒人や、インディアン、そして白人が共存している社会。肉体労働をしている人のほとんどが黒人であったし、黒人がせっせと文明の発展に必要なものを作っている中で、白人たちは銃での撃ち合いをしたり、金儲け、いわゆる「ビジネス」を始めたりしていた。そういった事実がやはり見て取れた。これがアメリカがしてきたことであり、無視できない点なのである。ただ、この映画のテーマは、そういった「社会」ではないので、話を本筋に戻そうと思う。

 

この映画を見て何を思ったか。簡単に言うと、男にしか理解できない世界が描かれているんだと思った。いや、男にしかとは言い切れない。女でも理解のある人はいる。ただ、よく映画などで女が言う、男って本当にしょうもない、戦ったり、正義のヒーローになりたがったり、みたいなセリフを耳にすることがある気がする。そのしょうもない、というのは、否定的な意味というよりは、男が周りに目もくれずひたすらにロマンを追い求めて夢見がちな姿に対して、幾つになっても子どものようでいるように見えるために発せられるものであり、愛おしさが込められた言葉だと私は思っている。

話が逸れたが、「男のロマン」が描かれているのだと思う。

いつの時代も、男の人の多くはかっこよくありたいと思い、自分が一番強くありたいと思うのだな、と思った。

 

ドラマチックな演出で、物語やキャラクターの役割も分かりやすく、非常に見やすい映画だった。社会問題や人の心が描かれている映画ではなく、劇的なものであったので、娯楽性の高いものという気がした。男の復讐劇としても面白く、脚本もよくまとまっていたと思う。

大抵男たちがかっこつけていて、かっこいいようなセリフを渋い声と顔で発するのだが、思わずツボにはまってしまった面白い発言もあった。

いかにも抜けている、見るからに下っ端感のある伝達係に対して、フランク(ヘンリー・フォンダ)が「ズボン釣りもしてベルトもしているやつを信用できるか」というのだが、いや本当にそうだ(笑)ととてもツボにはまってしまった。渋い男がキメ顔をしながらちょっとギャグっぽいようなことを言う。そういった思わず笑ってしまうような場面もいくつかあり、楽しかった。

 

ヒロインのジル(クラウディア・カルディナーレ)も、強くて自立した女として描かれていて、かっこいいなと思った。

フランクに殺されそうになった時も、迷わず体を差し出し、「そんなことをしてまで生きたいのか」と言われてはっきりとそうよ、というところは潔いな〜と思った。

まあ、そんなジルは、男たちの勝手な闘争だとか野望だとかに巻き込まれてしまうのだが、強くたくましく生きていたのは印象的だ。

 

この映画を観たのは、何と言ってもタランティーノが影響を受けたと言うからだ。

よくタランティーノの映画で、「その場を支配する」と言うような場面が描かれる。よくサミュエル・L・ジャクソンが演じるところだ。

このワンス〜インザウェストでも、強くて動じない者がその場の空気を支配する場面が多々あった。なるほど、確かに影響を受けている、と思った。

 

ゆるがない強さを持った者がタランティーノの映画にはよく登場する。その人にかかれば何か良からぬことがあっても安心できると言うか、「きっとこの人ならこの場を乗り越えてくれる」というような信頼感を持てる人物が出てくる。

ワンス〜インザウェストでは、それがハーモニカ男(チャールズ・ブロンソン)だった。ワンス〜インハリウッドでは、ブラッド・ピット演じるクリフ・ブースだ。銃口を向けられても全く動じない。動じない彼らは、過去にもっと過酷なことや残虐なことを経験しているということを理解することができる。

このことを思うと、今回見たワンス〜インザウェストやタランティーノ映画は、結構正統派的なところがあると思う。理不尽なことや気分が悪くなるようなことはあまり起きない。

激しいバイオレンスがあるにはあるが、こういった映画を作る者たちは優しい心を持っていると思う。

 

少し前に『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』という映画を見た。この映画は不気味だし、理不尽なことが起きる。変わった映画で少し後味が悪い。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』もトラウマレベルの理不尽な結末を迎える。人の心に傷を負わすレベルだ。

そのような映画と比べると、タランティーノの映画は優しいし、観ていて楽しい。

そして、ワンス〜インザウェストも観るものに対して優しい映画だと思った。

 

クレジットをよく見ていると、「ダリオ・アルジェント」の文字を発見した。「あ、サスペリアの人だ、確かにイタリア系の名前だよなこの人は。ここでも繋がりがあるのか」と思った。

もっともっと勉強する必要がありそうだ。

透明人間 Invisible man

この映画は、まあまあでした。

初めは結構ドキドキしたし、主人公が孤立していく感じは面白かった。

だけど、細かいところの詰めが甘いのではないか?と思った。(私の感想も詰め甘いですけどね・・・)

主人公の周りの人間が、主人公に対して信頼を失う時あまりにも唐突すぎて違和感を感じたり、そこでそんな行動とるかね?と思ってしまったり・・・細かいこと気にしすぎるのもよくないか。

あとは、音楽の音が大きすぎる・・・。正直耳が疲れてしまったし、使う音楽があからさまである。

そんなに音楽で盛り上げなくても、鑑賞している人は気持ちが盛り上がると思う。

そんなに激しく音楽使わなくてもいいじゃん!って思ってしまった。

エンドクレジットがだいぶうるさかったな・・・。あまり文句言うのはやめよう。人が一生懸命作ったものだから。

 

この映画を見て思い出した映画がある。それはスティーブン・ソダーバーグの『アンセイン』だ。Unsaneというタイトルである。これはInsaneという「狂気」という意味を持った言葉を少し変えた造語である。確か、この映画を見た時に映画の説明が載っていた冊子か何かを読んで、Unsaneに込められた意味みたいなものを読んだような気がする・・・。2年前なので思い出せない。

私はこの映画を飛行機内で見た。シンガポールからの便乗で帰ってきた時だ。

非常に印象に残っていて、というのも変わった映画だったからだ。

これは撮影・編集すべてiPhoneで行っているという。

iPhoneなので、素早いカメラの動きに対応できないからか、静止している画が多く、あまり画面の動きがなかった。ほとんどが固定の視点である。だから不思議な感じがしたのだ。

ダンサー・イン・ザ・ダークでも、主人公の女性が妄想の中でダンスをする時、固定視点の切り替えが使われていた。だから、固定視点を切り替えていくと言うやり方は、私にとって非常に不気味なものである。

これは、監視カメラの切り替えみたいだなといつも思う。

監視カメラ室には固定カメラの映像がたくさんあると思うが、そんな感じである。それを警備員か誰かが自分の見ておきたい映像に切り替えたりする。そんな感じだ。

だから、固定視点は「誰かに見られている感」があって怖い。

 

カメラの話はこのくらいにして、 

アンセインでも、今回見た透明人間でも、同じテーマが描かれている。

ストーカーされた、もしくはストーカー並に束縛されたり支配されたりした女性が精神を病んで、そのストーカー男に追い詰められて、自分が主張していることを誰も信じてくれなくなって、孤立して、実は自分の頭がおかしいんじゃないか?となっていく話である。

アンセインでは何が正しくて、何がおかしいか?もしやすると、映画を見ている私たちが今感じていることは間違っているかもしれない?主人公が正しいと思っていたのに、もしかするとこの人がおかしいのではないか?という思考をさせられ不思議な感覚にさせてくれた。

ただ、今回の透明人間では、確実に主人公が正しいので、ひょっとすると自分が信じていたものが覆されるかも、と言う感覚は味わえなかった。

透明人間の存在が確実だったからだ。

だからこの映画は人の精神の不安定さを描いているのではなく、アクションであった。

透明人間 vs. 人間であった。

 

ただ、透明人間のラストは少し含みを持たせていたと思う。

あれ、ひょっとすると・・?と思わせられた。

100年前のホラー映画の祖と言われている、『カリガリ博士』でも最後にあれ?ほんとはどっち?と思わせるような、ラストに含みを持たせていた。

そういうものはホラー映画的でいいと思う。

映画を見ていると、何か確信的な考えに落ち着いて見終わりたくなる。これは無意識にである。だが、ラストにあれ?実はこうなの?ということをされると、もやもやしてしまう。そうやって、観ているものを惑わすこともいいのではないか。

だから、透明人間のそれも悪くはないとは思った。

そんな感じである。

MOTHER マザー

朝日新聞の記事を読み、興味が湧いて観に行った。

後味の悪い映画だったが、観て良かった。

決定的なシーンであからさまに劇的な音楽を使うところはあまり好みではなかったが…。

長澤まさみの演技が非常に良かった。

欲望のままに生きて、子供を怒鳴りつけ、男を誘惑し、嫌なことがあったり思い通りにならなかったりすると顔を歪め悪態をつく。

一度も悪びれる様子を見せず、徹底して”嫌な”母親であった。まあこれは、映画的演出かもしれないが。実際のところは分からない。

とても怖かった。悪魔のようにも見えた。まるでホラー映画のようである。

前日に『カリガリ博士』という100年前のホラー映画を観た。もう著作権などないので誰でもYouTubeで見ることができるので、観たことがない方はぜひ観て欲しい。

カリガリ博士のことは具体的に書くのはやめておくが、ネタバレしない程度にいうと精神を病んでいる人の話である。

精神を病んでいる=悪だとか、ホラーだとかは思わない。ただ、怖くなるのだ。

人の心の闇を見ると、誰しもに起こりうることだと思うし、結果的に人を傷つける可能性があると思うと心が震えてくる。

どう見ても正常ではない状態の人は何をするか分からない怖さがある。でもその人にも事情があることを忘れてはいけないと思っている。

マザーも、世間と隔絶されて生きてきて、いわゆる普通に生きてきた人から見ればおかしいとも言える状態の人が、正常な考えを持つことができずに犯罪を犯してしまう。

一番怖いものはお化けでもなんでもなく、人の心かもしれない…と思う。

 

まあ、あまりホラーと結びつけるのも良くないと思うので、話を戻そうと思う。

これは一人の人間の堕落さが生んだものであり、また、どんなにひどいことをしても絶対に自分は悪くないと思っているその心が引き起こした悲劇である。だが、社会問題だとも思う。

一生懸命働いてお金を稼ぐことが正しい資本主義だからこそ起きる問題なのでは?

一度挫折した者は世間から見捨てられ、元通りになることが難しい世の中だからではないのか?

秋子(長澤まさみ)はどんなに貧しい状況に追い込まれても、絶対に働こうとしなかった。一見だらけたどうしようもない人間、とも見えるが、実はどこかで挫折しているのではないか?だから、社会復帰することを恐れているのかもしれない。ホストクラブやパチンコで金を使い果たすのは、どう見ても現実逃避にしか見えない。社会に馴染むことを諦めている。

 

他者から見ればどう見ても嫌な人間である。彼女の表面的な行動や言動だけを見ていると、なぜ働かない?なぜ子供をしっかり育てない?なぜそんなにも自分勝手でどんなに悪いことをしても心を痛めない?と思ってしまう。

でも、綺麗に正しいことだけをして生きていくことばかりが良しとされている世の中だからと言って、皆がそんなに強い人間とは限らないのである。

弱い人がいて当然で、そういった人がいることに目を向けないといけないと思うし、自分がいつそうなってもおかしくないと思う。

 

この映画を見て、正直にはっきり言うととても嫌な気持ちになった。

だが、社会が抱えている明るみになっていない問題がものすごく多くあることを感じさせられ、”知ること”の大切さを改めて感じた。

私の周りにいる人たちは恵まれ、温かい家庭で両親に育てられた人がほとんどだ。他者の家庭の内部まで見ることは不可能であるので、見えていないだけとも言えるが…。

恵まれた環境で育ってきた人たちはあの映画で起きていることをあまり問題視しないかもしれない。結局は自分と関係ないと、一歩引いて見てしまうかもしれない。

恵まれた環境で、強い心を持って順風満帆に生きてきた人が私の周りには多い。もしかすると、人間の嫌な部分や弱い部分をあまり目にしたことがなく、こんな映画を見るとびっくりしてしまうかもしれない。ただ、それが悪いことだとは決して思わないし、そう言った人々を否定する気は全くない。それは素晴らしく幸せなことだと思うから。

私はそういったところにも目を向けたくなってしまうのだ。社会の闇や人の心の弱さについても知っておきたいと思う。どうしてこうなっってしまうのか?というのを追求したくなってしまう。

 

ただ、今日すごく気をつけないといけない、と思ったことがある。恵まれない人に対し、かわいそうだとか同情をしすぎてはいけないということだ。

思いやりを持つことや、恵まれない立場に同情する優しい心も素晴らしいと思うが、時には危険な行為になり、相手によっては自分の身を滅ぼしかねないことになるのではないかと思った。

人は助け合うこともできるが、簡単に裏切ることもできる。

手助けはほどほどに、私情を挟まないことが必要だと思った。

 

人に期待しすぎれば、裏切られた時に痛い目を見る。

大人になるにつれ、心が枯れていく気がしている。人を疑いあまり信じなくなってしまった。

いや、昔から疑い深い人間ではあったが…。ただ、昔よりも期待を裏切られた時のショックの受け具合が変わってきている。

心の痛みをいちいち感じていては生きていくのに支障があるからだ。

人は心に傷を負うことを重ねていくと、そのうち心の痛みを感じないふりをする。痛いのに蓋をして痛くないふりをする。それを繰り返していくうちに、感性というものが失われるのではないかと思う時がある。

 

その反面、痛みを感じることを重ねたり、マザーのような刺激のある映画を見たりすることで、逆に感性が磨かれていくのではないか、と思う時もある。

 

まとめると、人生はどうなるか分からないから注意深く、しっかり自分の頭で考え生きていこうと思う。

 

話がすごく逸れてしまったのでこの辺にしようかな。笑

 

 

 

ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 Story of my life

良かったです。さすがの出来でした。

コロナウイルスの影響で映画館に行けずの3ヶ月間でしたが、久々の映画館はやはり良かったです。

まだ収束したとは言えない状況なので、映画館に行くべきか非常に悩みましたが、劇場で見ておきたかった作品なので決心して見に行きました。

平日に、かつあまり人が集まりにくそうな場所を選んだのですが、思っていたよりも人が入っていなくすかすかでした。

映画館側からすると悲しいことですが・・・まだこの状況なので、映画鑑賞を趣味とする私からすると少しほっとするといいますか、安心してしまいました。

土日はもう少し混んでいるのかもしれませんがね。

至るところに手の消毒液が置いてあったので、見かけるたびに手に吹きかけていました。

 

さてさて、若草物語、先ほども言いましたが良かったです。

結構長かったので久々の映画館、しかも仕事帰りということで集中力が切れそうになりましたが、見て良かったと思わせてくれました。

 

監督はグレタ・ガーウィグです。レディ・バードで監督デビューを果たした若い女性です。

彼女は、マリッジ・ストーリーの監督の恋人であり、彼の作品のフランシス・ハに出演しています。

二人して作品がアカデミー賞にノミネートしていて、しかも二人とも人の心を描くので、互いに才能がある上、気も合うんだろうな~と思わせられます。

 

シアーシャ・ローナンティモシー・シャラメはまたまたグレタ作品に出ていますね。

若い俳優を主演に使うことがとてもいい。見ていてフレッシュな気持ちにさせてくれますね。

シアーシャ・ローナンは、感情を思い切り表に出し、活発な役柄がよく似合うな、と改めて思いました。

声が可愛らしいけどすごくよく通るし、思いっきり泣いたり笑ったり非常に感性豊かな女優なんだと思います。そういった役を演じているだけとも言えますが、とても演技派の素敵な女優だと思います。

若草物語を見るのだから、彼女が主演のメアリーとエリザベスという映画を(公開時見ていなかったので)見ておいたのですが、なんだか、シアーシャ・ローナンの良さが全然引き出せていないな、とがっかりしたものでした。

映画自体が微妙だった・・のかもしれませんが、ここではあまり言及しないでおきましょう。

 

あの映画は、女性の人生を描いています。

実は若草物語を読んだことがなく・・原作との比較ができないのですが、よく映画の記事などで「この若草物語はグレタ・ガーウィングなりの解釈であり、彼女の人生を描いている」的なものをよく見かけました。つまり、現代を生きる女性が持っている価値観に基づいて作られているお話なのです。

だからこれは共感できるに決まっているし、特に女性は自分の人生と重ねるに決まっているのです。

 

ネタバレになりますが、

この映画は、主人公のシアーシャ・ローナンの過去と現在が行き来していて、最後にこの映画が主人公が映画の中で書いていた小説のストーリーにもなっていた、ということが分かるような構成になっています。

若草物語が描かれている時代、1800年代にはいわゆる結婚することがハッピーエンドとされていて、小説などの書き物はハッピーエンドでないと売れないと思い込まれていたがゆえ、シアーシャ・ローナンは編集長に「主人公が結婚する”ハッピーエンド”にしてくれ」と言われてしまいます。

そして、いわゆるハッピーエンドの映像を我々は見せられるのですが、それまでの物語を見てきた流れでその”ハッピーエンド”を見せられるとものすごい違和感を感じました。

この若草物語は敢えてその違和感を感じさせるような作りになっているのでしょうが、こんなわざとらしいものが幸せなことと思われ、みんなから求められている、とされていることっておかしいでしょ?とグレタさんに言われているような気持ちになりました。

はい、いかにもおかしいです。と大きく頷いておきました。

 

この映画は、実話というよりはお話、「物語」なんですね。ある女性がいて、こんな田舎で家族に囲まれて何気ない日々を過ごしている。自然に囲まれながら生きるということ、生活を営むということを楽しみ、そこから幸せを見出している。何も特別なことはないけれど、「人生を全うしている」。そんなことが描かれています。

人を愛し、生きることを楽しむ。時には苦しみ孤独に押しつぶされそうになる。

でもこれが、まさに人生であり、そして人生に対して何を信じ何を大切にしていくか、生き方は人それぞれだというとを感じさせてくれました。