そら飛ぶ映画好きのひとりごと。

感想は抽象的であり、単なる感想に過ぎません。

ナウシカともののけ姫における神

ナウシカもののけ姫において神とはなんなのか?どういう描き方をされているのか?考えてみました。

 

ナウシカにおいては、ナウシカが神のような存在だと思っています。

神は言い過ぎかもしれませんが、神話に登場する女神のような、はたまた戦士のような存在だと思います。神より遣わされし女戦士といったところでしょうか。

ナウシカが神話的なお話であると感じたのは、ナウシカという存在があまりにも完璧で理想的で、人間とはかけ離れた力を持っているためです。天界より人間社会へ降り立ち、荒れきった世界を良い方向へ導こうと翻弄するお話のように見えました。

ワンダー・ウーマンというDCの映画があると思いますが、あれも人間離れした女神のような女戦士が、戦争をして殺し合いをしている人間に絶望し、戦争を終わらせようとする話だったと思います。(まだ観ていないのでこれから観ます!)

ナウシカもワンダー・ウーマンも、全てを兼ね備えた女性が人間のために力を尽くしてくれます。そういった姿は人の心に勇気や感動を与えてくれます。こういった人がいたら世界は恐らくこうなるのではないか?という考察なんだと思います。

神が人間に手を差し伸べることはあまりにも現実的ではない、空想的な話です。そういったことから、風の谷のナウシカというのは神話的物語である感じがするのです。

 

一方で、もののけ姫で描かれていることはより人間社会に即した現実性を持った話のようでした。

もののけ姫での神というのは、しし神ですね。ただ、しし神というのは何もしないのです。確かおっことぬしの一族のイノシシが「しし神は何もしない。だから俺たちが人間と戦うんだ」というようなことを言っていました。

そう、神というのは何もしないのです。なぜか?それは神とは人間の心の中にしか存在しないからです。神は病気を治すこともないし、戦争も止めません。だからしし神が象徴的なものとして描かれ、人間と動物の争いごとに関与しない姿を見て、これは現実的な人間社会や宗教というものがいかなるものか、ということを描いていると感じたのです。

私がこの考えに至ったのは、「沈黙(サイレンス)」というマーティン・スコセッシ(原作:遠藤周作)の映画を観たからです。この映画では、「神についての考察」がなされていました。

「沈黙」は、日本でキリスト教を弾圧しようとしていた時代の物語になります。キリスト教が広まることは危険であるとした日本政府が、徹底的にキリシタンキリスト教徒)を排除しようとしていた時代の話です。

この映画で描かれていることは、強く神に忠誠を誓い、決して裏切ることなく神を想い続けていたとしても、結局神は手を差し伸べてくれはしないということです。そればかりか、神を信じようとする気持ちが強すぎるほど激しい拷問を受け、苦しみながら死んでいくのです。

それは何かおかしなことではないのか?と。本来ならば、宗教というのは人の心に安らぎや救いを与えるものなのに、信じれば信じるほど苦しい思いをし、「神は何もしてくれない」という気持ちが強くなるのです。

そうなのです。神は人間の心の中に存在する象徴的なものなので、現実社会で戦ったり命を救ったりするものではないのです。

神は傍観者でしかありません。

神は人間の争いには関与しません。それが神であり現実なのです。