そら飛ぶ映画好きのひとりごと。

感想は抽象的であり、単なる感想に過ぎません。

虹色のスカイツリー

1日中自宅にいた。仕事を終え、寒空の下に身を晒してみる。

新型コロナウイルスの影響で、ここ最近、会社に出向くのは2日に1回となった。自宅で仕事をする日は、一度も外に出ない時もある。

家の中で、ほとんどの時間をソファかダイニングの椅子に座って過ごしていると、いや、流石に体に悪影響だろうと、健康を気にしだす。

今日は残業をしたし、外へ出て気分を変えたくなったので、わざわざ寒い夜に近所のラーメン店にでもいってやろう、という気になった。外に出てみると、虹色のスカイツリーが見える。おや、珍しいと思い、ラーメンを食べ終えたら源森橋まで足を運び、そこからよく眺めてみよう、と決めた。

ラーメンはずっと気になっていた、のじりという店の煮干しラーメンを食べた。浅草駅から自宅へ向かう途中によく通る場所にあり、二度ほど入ろうとしてやめたことがある。わざわざ電車に乗って上野などのラーメンを食べに行くのも面倒なので、いよいよそこへ足を踏み入れようという気になった。

実は、煮干しを使ったスープにそこまで魅力を感じられなかったことと、ネギが大量に乗っかっていたことが、食べてみたい、という気持ちを遠のかせていた。

実際食べてみて、美味しかったと思う。だがやはり、そこまで好みではなかった。

店が小さいので、店内に4人しかいないのに2人順番待ちをしているという状況だったので、早々に食べ終え、店を後にした。そして、源森橋へ向かう。

やはり素敵な眺めだった。道ゆく人はみな足を止め、さらには、自転車に乗っている人までもがわざわざ自転車を止め、降りて、写真を撮っていた。虹色に輝いているのは、やはり珍しい。私も位置を変え何枚か撮ったが、スカイツリーまでの距離が近い場所なので、なんだか思い通りには撮れなかった。とはいっても綺麗な写真が撮れたので、満足である。

あの辺は、隅田公園の側であるが、最近「東京ミズマチ」というものができた。

北十間川という小さな川沿いに飲食店や雑貨屋が立ち並んでいる。まだ店に足を運んだことはないが、パッとみた感じどれも今時の洒落た感じである。隅田公園も、私がこの辺りに越してきた時とはまるで違っていて、これまた整った小ぎれいな公園になってしまっている。

私は社会人になって思い悩んでいる時、隅田公園の木陰にあったベンチに座り物思いに耽っていたが、そのベンチも消えてしまっていて、少し切ない。

どれもこれも、東京オリンピックに向けて、整えていたものだろうと思うとまた別の意味で切ない。

墨田区といえば、アサヒビールの本社があり、その隣にはみんなが大好きなうんちビルがある。聞いたところによると、あれは実は金の炎らしいが、建築法か何かで縦にできなかったらしい。本当なのだろうか。まあ、あれがなんであろうと、象徴的なことに変わりはなく、みんな惹かれているからなんでもいいだろう。

その、ウンチがのっかているビルには、「東京オリンピック開催まであと〇〇日」と日々カウントダウンが灯されていたのだ。4年前、越してきた時からほぼ毎日のように吾妻橋を渡り、その「あと〇〇日」を眺めていたので、そのカウントダウンの意味もまるでなくなってしまったことも、非常に切なくなる。

人々の暮らしが、まさに一変してしまった。こんなことがあっていいのだろうか。

ファイザーがワクチンを作り、効果9割以上との情報があった。早速イギリスが承認したようだが、日本はどうなるのか、実際の効能はいかほどなのか。果たして、近い未来に終わりは来るのだろうか。

 

 

スパイの妻

10月に入った頃はまだ半袖Tシャツでも少し歩けば汗ばむほどだったのに、最近はすっかり肌寒く、本格的に秋の陽気になっている。紅葉が見たく、各地の名所を調べるなどしてこれからの楽しみに一人うきうきとしている。

 

そんな中、先週スパイの妻を見た。なんというか、洒落ている映像、音楽であった。ドラマチックなサンスペンス劇と言ったところか。監督の腕の良さを感じた。

ホラー映画的な、怖さを引き立てるような場面があった。高橋一生に尋問をする東出昌大の顔に深い影がかかって、いかにもサスペンス的、ホラー的な音楽が流れている。そんな場面を見て、ドラマチックな映画的演出に胸が高鳴った。

 

脚本も確かに、意外な展開となり面白いことは面白い。だがこの映画は、役者の少し仰々しいような演技や、演出、音楽、ファッションなどを楽しむ映画なのではないかと感じた。

 

あの時代の神戸がいかにモダンで洒落ていたか、というのを感じることができた。

主人公は上流階級の暮らしをしていたので、一部の金持ちに限られた暮らしぶりだったかもしれない。だがあの時代は港があった神戸があんな風に欧風文化を取り入れ、和と洋が入り混じった独特の文化が形成されていた時期というのを感じ取れ、非常に興味深かった。その一方で、第二次世界大戦が迫り、洋物は使うでない、と言った制限が始まりだしているから更に複雑である。

 

時計やアクセサリーを買うシーンが印象的で、百貨店などではなく、人影の少ない路地裏のような場所で少し怪しげな人が個人で売っていた。現代であのような販売をしている人を見かけるとどうも怪しいと思ってしまうが、昔はあのような物のやり取りは当然だったのだろうかと、今の人と変わらないような装いをしていても、そこは戦前ということを気付かされる。

時計の購入に限らず、布を頂けば洋服を仕立てようという話になったり、わざわざ山へ氷や山菜を採りにいったり、そういったことからもほとんどの現代人(都会に限るかもしれないが)経験することのない昔懐かしい生活を垣間見ることができる。

 

そういった、昔ならではの暮らしぶりや、画を楽しむ映画だと個人的に思った。とても楽しませてくれる、面白い作品だった。

 

赤い闇 スターリンの冷たい大地で Mr. Jones

またひとつ、人間の歴史の闇を知ってしまった…という気分になりました。正直ショックを受けました。

この映画はとても見応えがあり、分かりやすくおもしろかったです。カメラワークが独特で、きっと主人公の心や社会自体の不安定さを視覚的に表現していたのではないかと思いました。

内容も興味深く、人が人にしてきた酷い仕打ちがあった現実を知ることができ、更には政府の人間や権力を持つ者たちがどの国よりも経済を発展させたいだとか自分たちのキャリアのためだとか、そういったどこか本質とは違った、過剰に"豊かさを求める心"のようなものが多くの人々を苦しめたり、それによって一人の勇敢な真実を語る人を害悪だと世間的に仕立て上げたり、非常に難しい問題を垣間見ることができました。

 

どうして真実に近づくこと、追求することが命を脅かすことになるのか?これはすごくおかしいことだと思います。

結局はごく一部の権力を持つ人間たちに世の中に出回る情報などが操作されているのか、と思うとなんだか悲しくなります。その悪行に立ち向かわないことは思考停止であり臆病であり虚しいことです。でも、ほとんどの人がそんな勇敢なことができないです。社会的に排斥されるという事実があるからです。仕事を失ったり社会的に抹殺されたりすることで生活、更には命を脅かされるからです。

でも、事実をさらけ出すことがそういったことにつながること自体がおかしなことなのです。人間の欲望により、その他多くの人々が辛い思いをしなければならない世の中である事実が悲しいです。

 

私は真実に目を向けられる人でありたいです。本質から目を逸らさず、正しいことを判断できる大人でいたいです。

ローズマリーの赤ちゃん 真実に近づくことの危うさ

この映画、すごく面白かった。

ヒッチコックの映画のようなしっかりとした構成で、撮り方も素敵だった。

来客時にドア窓から外を覗く場面が面白かった。

 

ロマン・ポランスキー監督の映画を実は初めて観た。

戦場のピアニストをずっと観たいと思い続けていまだに観ていない。夏休みに観る決心をした。

 

ローズマリーの赤ちゃんを観て、フライトプランやアンセインが思い浮かんだ。主張が通らなくなり、理不尽な目に遭っている主人公を始めは信じ、応援しようという気になる。だが、周囲の人間があまりにも嘘を貫き通すので、主人公のことを信じきれなくなってくる。

もしかして、本当に主人公の妄想なのかもしれない・・・。この人を信じ続けていいのだろうか?という気持ちになってくる。

 

 

嘘を真実かのように扱われ、変な気持ちというか嫌な気持ちにさせられることは現実世界にもあると思う。

例えば、恋人や子供がなにか隠したくなるようなことをしでかしてしまったとする。明らかにそれをしてしまったことは確かなのに、問い詰めると「やっていない」と言う。何度聞いても「絶対にやっていない」と言われると、気が変になりそうになる。

明らかにそれをしでかしたことは真実なのに、何度問うても認めようとしない。その心が本当にわからなくなる時がある。

周りに言いくるめられ、誰も信用できなくなる。その時のいらいらする気持ち、自分は真実を語っているはずなのにそれが通らない現実に打ちのめされ、まさに"気が変に"なってくる。

 

また、ローズマリーの赤ちゃんは女性がちょっとしたヒステリーを起こしたり感情的になったりした時に、周囲から「頭がおかしい」というレッテルを貼られ、精神病だなどと追い詰められることを描いてもいると思う。

チェンジリング」ではアンジェリーナ・ジョリーが息子が本当の息子ではないのに、その真実を訴えても誰も信じてくれないどころか、頭がおかしいとされ病院に閉じ込められ酷い仕打ちを受けていた。

歴史的に女性に対してそういった扱いをしてきた過去があったのかもしれないと思うことがある。いや、実際のところは男女問わずかもしれないが、過去に女性差別があった事実を思うと、ありそうなことだと思う。女性に男性と同等の権利がなかった時代は、女性の発言を軽視されていたかもしれない。

 

自分の主張が、しかも真実を語っているのにそれが通らないとはどういう気持ちか、想像するととても辛い。ローズマリーの立場に立ち、非常に恐ろしい気持ちになった。あれでは誰も信用できなくなり、自分の近くにいる全く関係のない人までグルに見えてくるのは当然のことである。

ただ、ローズマリーの赤ちゃんでは、本当にローズマリーが被害に遭っているのか、それともローズマリーの妄想なのか実際のところ曖昧になっている。

監督もそのようにインタビューで話していたので、曖昧になるよう作られているのは確かだ。

その曖昧さが非常に面白い。ただ、妄想落ちにしてしまうと多少の女性批判がある気がしてしまうので妄想でない方が良いのかもしれない。

 

ローズマリーの赤ちゃんフライトプランチェンジリング、アンセインでは主人公に味方がいなくなっても彼女たちは真実に近づくことを諦めない。だから、だんだんと信用できなくなってきても主人公のことを応援したい気持ちは変わらない。ただ、真実に近づけば近づくほど危険な目に合うことも事実である。病院に入れられたり、殺されそうになったり。それならば嘘を本当と認めてしまった方が自分の身のためである。

それでも彼女たちは真実に近づくことを諦めない。どんな仕打ちにも立ち向かっていくことはかっこよいと思う。

アンセインは若干系統が異なるが、フライトプランチェンジリングローズマリーの赤ちゃんと同様、母親が主人公だ。

子を守るためにはどんなことにも耐え、危険に身をさらす。それが母親なのか、と思わせられた。

 

 

 

 

ダンケルクをIMAXで鑑賞してみた

ダンケルクIMAXで上映しているというから、これは観に行かねば!と思い立って行ってみたのだが、やはり映画は映画館で観るべきだ・・・という思いを強くさせられた。

感想の前に、なんと、IMAXでテネットの予告を見ることができた。他の映画の予告は一切やらず、10分くらい使ってテネットの予告を見せてもらえた。

急いでいたので、昔の記憶を頼りにろくにスクリーン番号を確認せずに入ってしまい、初めはあまりの予告の長さに、しかも予告というより本編の冒頭なのか一部なのかを、カットなしで放映しているので、別のところへ入ってしまったのかと冷や汗が出た。

途中でTENETのタイトルが出たので、あ、クリストファー・ノーランの最新作ではないか・・・と納得したのである。

テネットととは初め気づかなかったのだが、あまりの緊迫感、迫力に見入ってしまい、この映画絶対見に行きたいなーなんだろうと呑気に思ったのである。クリストファー・ノーランの映画は絶対映画館で、できればIMAXかドルビーシネマか、その類の映画館で観るべきだ。

 

2年前くらいにダンケルクを家のテレビで観た。公開は2017年というが、私はその頃社会人2年目で映画どころではなかったため、ほとんど映画に触れていなかった時期だ。そう、ダンケルクを映画館で観ていなかった。しかしながら、2017年のいつだったか、映画を好きと言いながら映画のこと何も分かっていない、観ても理解できないことが多い、こんなんで映画好きとは言えない、ということに思い悩んで映画に向き合おうと思い立った時期でもある。その頃は映画館で映画を見るというよりは、これは観ておくべき映画、という教科書的なものをひたすら家で見始めた頃なのである。

 

そんなこんなで、家のテレビで2年ほど前にダンケルクを鑑賞し、何を言わんとしている映画なのか、正直汲み取れていなかったと思う。以前の私の感想を読めばわかると思うが、登場する人々の動きだとかセリフだとか内容的なところに注目して、なんとかこの映画のテーマか何かを汲み取ろうとしている。

 

minamii2.hatenablog.com

 

ただこれは、私の映画への理解力が乏しかったことも確かではあるが、家のテレビで見たからこそなおさらこんな感想になるのだと思う。今回ダンケルクを映画館で観て思ったのだが、家のテレビで観ると映画のストーリーだとかにばかり目がいき、内容的な部分の感想ばかりになる。しかし、映画館では映像や音や全てに対して感じることができる。映画を成すもの全てに対する感想を持てる。だから、家のテレビでは感じられなかったことがあり、前とは違った感想を持てた。

やはり映像の素晴らしさは大きなスクリーンではないと伝わらないなと思った。

 

今回ダンケルクIMAXで観て、隅から隅までよーく観ることができた。

何がすごかったかって、どこにもCGが使われていないところだ。CGなしではとても危険とも思えることをやっているのだ。それをあの大スクリーンで体感できた。

 

そのシーンはどうなっているの?というものばかりであり、是非ともメイキングを観てみたいと思った。

戦闘機のシーンなんか、どうやって撮影したのだろうか。翼にカメラを設置しているような画があったが。飛びながら前に飛ぶ戦闘機を撮影して、更には戦闘機が墜落し、海に沈んでいくところまで映して。

エンドクレジットを注意深く見ていると、スタントチームが紹介されている。人数がとても多く、こんな規模のスタント見たことないんだけど・・・と思った。あの映画を見ていれば分かるが、それだけのスタントの協力があってこそなのだ。本当に、素人がやったら死んじゃうのではないか?という戦争の現実が映し出されていたようだった。

 

CGの全てを否定する気は全くないが、どうしても苦手意識がある。本物を使って撮った方が明らかに映像が素晴らしいからである。

優れた脚本で見応えのある映画であれば、CGを使っていても満足感を得られると思うし、それに危険なシーンは使わざるを得ないと思うからCGを悪いものとは思っていない。だが、CGと分かった途端になぜだかがっかりしてしまう・・・。それは、CGではない映像がいかに感動的で素晴らしいか、美しいかということを知っているからだ。一度それを体験してしまうと、CGが苦手になってしまう。

 

この映画は、映像やスタントやキャストの規模のすごさを感じる映画であり、内容的なところは非常に淡々としていて、そこまで奥深いものでもないのだと気づいた。

 

兵士たちの行動から戦争を経験するということ、危険な場所へ身を置くということが人間の心にどのような影響を与え、どんな行動を取らせるのかというのが見て取れる。

ただダンケルクは、映像やスタントの部分に特化していて内容的なところは少し物足りなさを感じてしまう映画であった。もう少し深掘りすれば、「サウルの息子」のようにその映像に深い意味を持たせているような部分があるかもしれないが。なんというか、映像はすごく見応えがあり本当にすごいものだと思うのだが、内容的なところは少し地味な映画だと感じた。

 

地味と言っても、以前感じたような生きたいという欲望や戦場では人が簡単に死んでしまうという現実、正義感による戦ってきた者の後ろめたさ、民間人の一人でも多くの兵士を救いたいという想い。そう言ったこと感じ、見ることができる。

そこは悲しかったり苦しかったり、感動的であったりし、戦争について考えさせられてしまう。

 

ナウシカともののけ姫における神

ナウシカもののけ姫において神とはなんなのか?どういう描き方をされているのか?考えてみました。

 

ナウシカにおいては、ナウシカが神のような存在だと思っています。

神は言い過ぎかもしれませんが、神話に登場する女神のような、はたまた戦士のような存在だと思います。神より遣わされし女戦士といったところでしょうか。

ナウシカが神話的なお話であると感じたのは、ナウシカという存在があまりにも完璧で理想的で、人間とはかけ離れた力を持っているためです。天界より人間社会へ降り立ち、荒れきった世界を良い方向へ導こうと翻弄するお話のように見えました。

ワンダー・ウーマンというDCの映画があると思いますが、あれも人間離れした女神のような女戦士が、戦争をして殺し合いをしている人間に絶望し、戦争を終わらせようとする話だったと思います。(まだ観ていないのでこれから観ます!)

ナウシカもワンダー・ウーマンも、全てを兼ね備えた女性が人間のために力を尽くしてくれます。そういった姿は人の心に勇気や感動を与えてくれます。こういった人がいたら世界は恐らくこうなるのではないか?という考察なんだと思います。

神が人間に手を差し伸べることはあまりにも現実的ではない、空想的な話です。そういったことから、風の谷のナウシカというのは神話的物語である感じがするのです。

 

一方で、もののけ姫で描かれていることはより人間社会に即した現実性を持った話のようでした。

もののけ姫での神というのは、しし神ですね。ただ、しし神というのは何もしないのです。確かおっことぬしの一族のイノシシが「しし神は何もしない。だから俺たちが人間と戦うんだ」というようなことを言っていました。

そう、神というのは何もしないのです。なぜか?それは神とは人間の心の中にしか存在しないからです。神は病気を治すこともないし、戦争も止めません。だからしし神が象徴的なものとして描かれ、人間と動物の争いごとに関与しない姿を見て、これは現実的な人間社会や宗教というものがいかなるものか、ということを描いていると感じたのです。

私がこの考えに至ったのは、「沈黙(サイレンス)」というマーティン・スコセッシ(原作:遠藤周作)の映画を観たからです。この映画では、「神についての考察」がなされていました。

「沈黙」は、日本でキリスト教を弾圧しようとしていた時代の物語になります。キリスト教が広まることは危険であるとした日本政府が、徹底的にキリシタンキリスト教徒)を排除しようとしていた時代の話です。

この映画で描かれていることは、強く神に忠誠を誓い、決して裏切ることなく神を想い続けていたとしても、結局神は手を差し伸べてくれはしないということです。そればかりか、神を信じようとする気持ちが強すぎるほど激しい拷問を受け、苦しみながら死んでいくのです。

それは何かおかしなことではないのか?と。本来ならば、宗教というのは人の心に安らぎや救いを与えるものなのに、信じれば信じるほど苦しい思いをし、「神は何もしてくれない」という気持ちが強くなるのです。

そうなのです。神は人間の心の中に存在する象徴的なものなので、現実社会で戦ったり命を救ったりするものではないのです。

神は傍観者でしかありません。

神は人間の争いには関与しません。それが神であり現実なのです。

 

別離

イランの映画です。

私は見たい映画をiPhoneのメモ帳に書いているのですが、『別離』もその中にありました。

Amazon プライムで見つけたので、「そういえば別離って見たいリストにあったな〜」と思いながら見てみました。

 

なぜ別離が見たいリストにあったかというと、町山智浩の『トラウマ恋愛映画館』という本に載っていて気になったからリストに載せました。その本を読んだのが2年前くらいなので、なんとなく観たいと思ったからメモしたのだな、と認識していた程度です。

映画を観終わったあとに、町山智浩の本で解説が載っているかもしれない、念のため確認しておこうと思い、「別離」という文字を探しました。

観たいリストの「別離」の前後に、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』と『ラストコーション』があったので、その辺りに「別離」はあるはずだ、と一生懸命探しました。

なかなか見つからなかったのですが、ようやく見つけ前後の文章を確認すると、特に別離についての解説はありませんでした。

それどころか、この本に載っていた別離は、イングリッド・バーグマン主演の1939年公開のものでした。

 

勘違いによって今回、この『別離』を鑑賞したのでした。

ただ、勘違いしてよかったと思いました。なぜならかなりの見応えがあったからです。

主となるテーマは「離婚」なので非常に重たいし、自分の将来について改めて考えるきっかけの一つになるので、真に受けるとかなりしんどい映画です。

 

とにかく、物事がどんどん悪い方向に行ってしまいます。

観ていくとどんどんどんどん辛くなっていきます。

マリッジストーリーも離婚がテーマで、なかなか心を揺さぶられる映画でしたが、あれはまだ感動であったりいわゆるハリウッド映画的(?)な美しい愛が描かれていましたが、この『別離』はとてもじゃないが観ていられなくなってくるような、重たいものでした。『別離』は容赦のない映画です。

なんというか、結婚生活の辛い部分や現実性が描かれていました。

 

結婚について考えさせられる作品をこれまでいくつか観てきました。その度に、自分と重ね合わせ、思い悩み、私は結婚ができないかもしれない・・と悲しくなり涙を流してしまいます。

別離の場合は、観ていて非常に悩ましい気持ちになるのですが、観続けているとそういった感覚をも超えて、遂には展開が気になり目を離せなくなるような映画でした。

観ていて辛いには辛いのだが、非常に考察のしがいのある奥深い非常に真面目な作品でした。

 

別離で描かれていたことを元に、結婚生活の問題点や夫婦が揉めてしまう原因、いくら話し合っても分かり合えないのはなぜか、考えてみたいと思います。

 

まず、結婚とはどういうことか考えてみます。

結婚とはある一人の相手と生涯を共にすることを決意することです。

死ぬまで一緒にいると決めることです。

そして、死ぬまで一緒にいるとはどういうことかというと、その人の人生の責任を負い、互いに助け合い、共に生きていくことです。

 

共に生きていく過程で様々な壁にぶつかると思います。それでも二人で、子供がいるなら、家族みんなで力を合わせて生きていきます。

壁というのは、家族が病気になるだとか、両親に介護の必要性がでてきてしまうだとか、お金の問題だとか、色々とあると思います。あげたらきりがありません。

結婚とは、そういった壁にぶつかっても助け合いながら継続してその人と寄り添うことです。

 

まさに苦楽を共にし生涯添い遂げ続けることを覚悟することが、「結婚すること」だと私は思っています。

 

そうやって、「一生」というものが付き纏うと、なかなか結婚に踏み切れなくなります。女性の場合だと、すべての家事や家族の世話をする人が未だに多いので、自分のために時間を使うことが出来なくなる人が多くいるため、余計に結婚を渋る気持ちが湧いてくるのではないかと思います。

それでも、人々がこれほど縛られても人生を賭けて結婚をするのは、独りであることは孤独であり、また、本当に愛している人といつまでも一緒にいたいと、その時は思うからです。

 

ただ、これほどまでに結婚生活に人生を縛られて生きづらくなるのであれば、簡単に離婚ができるようにすれば良いのでは?と思うところもあります。

ただ、簡単な離婚なんて、出来るわけがない。それが現実ですね。倫理的に考えてもおいそれと離婚をすることは不可能です。

2人が築き上げてきた思い出があるし、何より子供がいれば尚更離婚なんてできることではないです。

 

同じような価値観を持っている者同士ならば、結婚生活というのは幸せなのかもしれません。しかし、実際は相手のここが分からないだとか、納得のいかない価値観に悩まされることがあると思います。夫婦が揉めてしまうのは、価値観の相違が大きな原因だと思います。

互いに納得できるまで話し合い、相手の価値観を尊重できるような関係性であれば問題はさほど大きくならないかもしれません。

ただ実際のところ、夫婦というものは不思議なもので、夫婦間では強気になったり行き過ぎたことを口走ったりしてしまうことがあると思います。お互いに自分の価値観を譲ることができなくなっていき、悪循環が起き始めることがあります。

それは、愛し合って心を開き合ったからこそ起こり得ることだと思うし、なんとも皮肉な事実なのです…。

一度互いに譲れない状況に陥ってしまったら、いくら話し合っても解決することは難しくなります。

 

『別離』では、離婚をするところから始まります。ただ、簡単に離婚をするという決断をしたわけではないことは見ていたら分かります。互いに納得できない部分を抱えてきて、愛情も冷め、だけれども子どものことを想ったり、互いのこれまでの生活のことを思ったり、様々な葛藤がある状態で離婚を決意したのだろうと。

離婚をきっかけにそれまでの生活リズムが大きく崩れ、やむなく違うことを試みたところ、思わぬ方向へ行ってしまい取り返しがつかなくなっています。

追い詰められた2人から発せられる言葉は、長年積み重ねてきた不満のようなものでした。

 

この映画の最後のシーンの印象的なことといったら、素晴らしいものでした。

娘が弁護士より、お父さんかお母さんか、どちらに決めたか口に出して教えて、と言われてしまいます。

我々は彼女の答えを聞かされぬまま、エンドクレジットを迎えることになりますが、なんとも奥ゆかしい、そしてこの先この家族はどうなってしまうのだろう?と不安にさせられる終わり方でした。

 

この映画の監督、アスガル・ファルハーディーという方は非常に隙がないほど真面目でかつメッセージ性の強い映画を作る人なのだなと思いました。ドキュメンタリーにも近いほどの淡々とした雰囲気で撮られ、それゆえに現実性を強く感じます。静かだが、非常に力強い、骨太な作品だと思いました。

アカデミー外国語映画賞を受賞した、『セールスマン』という映画を観ましたが、そちらも同様でした。

 

非常に注目されるべき監督だと思います。

イランの社会問題や宗教的な部分についても理解しておくと、より深みを増すと思いますし、少し疑問に思った点も納得がいくのだろうと思います。

 

少しでもイランの社会構造について勉強してから観ることをおすすめします。観たあとに調べるでも良いと思います。

とにかく、人におすすめできるような、見応えのある映画でした。